念は込めずに真心込めて
仏像って人の形をしているだけに、念がこもっていたら怖いですよね…。念のこもった仏像は仏像の形をしていても中身は仏さまではないような気がします。念が入った仏像はちょっとイヤだ…。
念と真心の違い。私は執着の有無だと思います。執着がどこから来るかといえば、結果を自分の思う方向へ持っていこうとする意図ではないかと思うのです。
例えば「あの人には幸せであってほしい」という思い。ただそう思うだけなら真心でしょうけれども、「あなたの幸せのためには~なければいけない」となってくるとそこには意図が入っていますよね。それを背負わされると重たいものになります。
仏像を彫るときはほとんど何も考えません。たまに懸案事項などが頭に浮かぶこともありますが彫り始めたらすぐに忘れます。切り替えは大事だと思います。頭に浮かんだ雑念をいつまでも追いかけて考え続けるとケガしますし、他の事を考えながら彫れるほど仏像彫刻は楽なものじゃありません。非常に高い集中力を必要とする作業です。
ましてや人様に持ってもらう小地蔵さんであれば雑念を持った状態で彫るなんてことは、恐ろしくてできませんて。思いはそのまま作品に現れますからね…。込める思いは温かなものでありたい。どうしても切り替えができない状態のときは人様に渡す仏像には触らないようにしています。自分の物なら何がこもっていようが所詮は己の内だからいいんですけど、他人にそれを持たせるわけには…ね。
自分の心をできるだけ平静にして小地蔵さん作りに取り組んでいます。念は込めずに真心込めて。それを手にした人が思わず微笑んでくれたら最高。
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